吉敷地域の文化
吉木村絵図
「吉敷村絵図」とは
この「吉敷村絵図」は、萩藩絵図方が作製した「一村限明細絵図」(地下上申絵図)という、周防・長門国(山口県)全域におよぶ村絵図群の中の一つです。
江戸時代、18世紀半ばごろの吉敷村の様子がわかる貴重な歴史資料です。絵図の内容は、『吉敷さんぼ』(104~107ページ)をご覧ください。
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では、江戸時代になぜこのような大規模な村絵図が作られたのでしょうか。
18世紀半ば頃、萩藩では、蔵入地と給領地や村々の境界が必ずしも明確ではなく、境界をめぐる紛争が多発していました。
この問題を解決するため、享保5年(1720)12月、萩藩絵図方に特命を受けた大組士・井上武兵衛が加わり、防長両国一村ごとの境界を明示した村絵図「一村限明細絵図」(「地下上申絵図」、山口県文書館蔵)と、「境目書」・「由来書」・「石高書」などの村明細書(「地下上申」、同前)の作成に着手しました。同時に、領内の各寺社の由来等を記した「寺社旧記」(「寺社由来」、山口県文書館蔵)も作成され、結果的に、藩領全域にわたる地誌編纂事業が推し進められました。後年、井上は、村絵図作製が自分の目論見によるものだったと述べています。
村絵図の作製方法は、領国内各村の庄屋に対して、村絵図並びに石高書・境目書・由来書の提出を命じ、その後に絵図方で統一的に清書するというものでした。このため、村絵図は、大きく2種類に分けられます。
一つは、「地下図」(地下絵図)と称されるもので、各村から絵図方に提出されたものです。一村限明細絵図の境界表記が詳細なことは当然ですが、特に地下図は、村境確認の証拠書類となるため、庄屋・畔頭ら村役人連中の奥書に加えて、料紙のすべての継ぎ目に印が捺されています。絵図の形状は、元文年間(1736~40)までは方形が主流で、寛保年間(1741~44)以降は、村境界に沿って切り抜いた形状に変更されています。その割合は、方形タイプが40%、切り抜きタイプが60%です。地形表現や情報の記載方法も、初期段階で区々であったものが、事業が進行するにつれて一定のまとまりをみせるようになり、寛保元年(1741)以降は、彩色を除けば、清書版とほぼ同様の仕上がりとなっています。
地下図は、各村役人が絵図方へ提出する形式となっていますが、多くの場合、実際に絵図を作製したのは、絵図方とその手子たちでした。絵図方が、実際に現地へ出向き、村役人達が村境を逐一案内したことが、各地下図の奥書に記されています。また、現地調査は、支藩領や一門領地にも及んだため、遠近付の平田仁左衛門は格違いを考慮され、享保5年(1720)12月、大組に加えられています。
もう一種類は、「清図」(清書絵図)と称されるもので、絵図方が地下図をもとにして統一的に清書した絵図です。ただし、清図に作製年は記されていません。
縮尺は3600分の1で、形状は、村境線に沿って切り抜かれた不定形です。美麗な彩色が施され、絵画作品としても遜色ない出来映えです。
図中の地名表記は、郡、宰判(さいばん)、本村から小村(こむら)、小名(こな)に至るまで詳細です。山名も比較的小規模なものまで記されているのも貴重な情報です。また、街道は赤線で示し、河川やため池も描かれ、人家・寺院・小堂・米蔵・一里山・高札場・勘場・御茶屋・駕籠建場・橋などの施設は記号印で示されています。方位は、「東」「西」「南」「北」が丸枠で四方に示され、村境部分の各所に、境界の注記があります。
清図は、ジグソーパズルと同じ仕組みで、郡単位での接合が可能です。接合する際の目印として、村境付近に「いろは」文字の合紋(あいもん)が記されています。また、郡ごとの村絵図の接合状態と合紋配置を示した図として、「吉敷郡村絵図相紋図」と「周防国玖珂郡岩国領村敷図」が残っています。
地下図の藩への差出し期間は、享保12年(1727)から宝暦3年(1753)までの26年間に及びました。寛延3年(1750)7月頃、絵図がほぼ完成したとして、萩城書院で重役たちに披露されています。宝暦5年(1755)3月8日、井上武兵衛が絵図方を退任し、村絵図作製事業に一応の区切りが付けられました。しかし、その後も境界の変更や地形の変化などに対処する必要があり、本事業は幕末まで継続されています。
現存するものは、地下図458枚、清図377枚の計831枚です。伝来の過程で一部が失われているのが惜しまれます。このほかに、収納用の帙が56点、副図と称される作製半途の清図が157枚あります。なお、地下図は全村で作製されましたが、清図は、全村の86%の作製に留まっています。
いずれにせよ、この村絵図は、江戸時代の防長各村の景観を伝える貴重な歴史資料となっています。