吉敷地域の文化

関屋一里塚の復元

2023/5/16

 平成26年「吉敷さんぽ」の編集に取り掛かった頃でした「吉敷さんぽ」第Ⅱ章は「もっと知る」というタイトルにして、それを10節に分け、その中の一つの第5節を「吉敷毛利家」としました。江戸時代、ここ吉敷はどんなところだったのかを知るためです。当時この地は吉敷毛利氏の知行地で、吉敷村(吉木村と表記するものもあります)という名称でした。では、江戸時代の吉敷村がどんな姿だったのか、それをイメージするために、第7節を「享保の吉木村絵図」にしました。享保とは年号で、西暦1716~1736年のことでそのころの吉木村の絵図、地図ということです。「吉敷さんぽ」にこの村絵図を掲載しようと、掲載許可をもらうため山口県文書館に現物を撮影に行き、絵図の中にある「関屋」と書かれた地名の隣に一里塚の絵を見つけて以来、その復元をしてみたいと考え続けてきました。
 以来、関屋の一里塚に関して一つは、歴史の道「肥中街道」調査報告書(平成8年山口県教育委員会発行)の中で、触れてあるのを目にしました。「(関屋の一里塚について)現在その跡を的確に知ることは出来ないが・・・」と記されていました。そしてもう一つは、文化振興協議会の古文書輪読会で吉敷の庄屋「野村右衛門」氏の日記を読み解いていた際、関屋の一里塚に関して記されたある日の記事を目にしました。安永2年(1773)2月19日の記事に長州藩絵図方のお役人が登場し、一里塚の修復について野村右衛門氏とお役人平田、有馬両氏のやり取りが記されていました。(詳しくは地域づくり協議会のHP文化のジャンルにある関屋一里塚参照)こんなこともあり、その復元について協議会としては思いを強くして来ました
 この間、肥中街道の竹林整備や街道掃除、道標(みちしるべ)設置など肥中街道の整備、肥中街道連絡協議会の設立等々に随分労力を要することになり、やっと、令和5年3月にその復元にこぎ付けることが出来ました。
 令和4年になり、県内に残されている一里塚の見学文化バスの実施や、山口文書館の協力を得て一里塚の図形化も実施しました。一方、一里塚設置場所については、吉敷川の右岸側の現状に目をやりますと、建物が相当ありますし、畑地が耕作をされていて一里塚の復元地として使用させていただく了承をもらうまでに相当な時間を要していました。そんな中、赤田町内会長さんのご尽力により関屋の区域内に一里塚復元用地として、使用させていただける場所が決まり作業は順調に進みました。塚石の上の塚木は検討の結果、昔どおりの木製にしました。何年かすると風化し修復が必要になるものと考えられますが、その際は皆で塚木の修復に関わり、一里塚保存の修復作業が永く続くことを願って、化成品は使わずあえて木製にしています。
 また塚木には、吉敷交流センターの書道教室「書道春秋」で指導しておられる、吉敷在住の秋山先生に銘を書き入れてもらいました。

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