吉敷地域の文化
吉敷の庄屋と肥中街道「関屋」の一里塚
江戸時代の肥中街道の様子がよみがえる貴重な資料に遭遇いたしましたから紹介します。
文化振興協議会の古文書輪読会で吉敷の庄屋「野村右衛門」さんの日記を読み解いていた際、安永2年(1773)2月19日の記事に長州藩絵図方のお役人が登場しました。野村右衛門とお役人平田、有馬両氏のやり取りにびっくりしました。関屋地区の肥中街道沿いにあった一里塚に関することでした。この一里塚は享保の吉敷村絵図に記載されています。(吉敷さんぽ104~107ページ参照)
長州藩の絵図研究の第一人者である県立山口博物館の山田さんに「野村家文書」の一里塚に関する部分の解説をしていただいたのでその内容を掲載いたします。
絵図方平田仁左衛門・有馬八兵衛来村の事
(「諸控」 野村家文書28 山口県文書館蔵)
安永弐巳ノ二月十九日、絵図方御役人平田仁左衛門様、有馬八兵衛様、長小野ノ方より御通路ニて、西方便え御登り被成、畑村ニ御止宿被成候時分、関谷壱里塚及中絶、銘不相分之通、絵図方へ申入候へは、根長幅御見合せ被成、手札御渡方相成、早々仕調候様ニと御申渡し候事、右之銘肥中浦より十四里、山口道場門前より壱里廿三町と有之候事
(現代語訳)
安永二年(一七七三)二月十九日、絵図方役人・平田仁左衛門様と有馬八兵衛様が、長小野(萩市佐々並長小野)を通られて、西鳳翩山に登り、畑村(山口市吉敷畑)に泊まられた時、関谷の一里塚が途絶えてしまい、(塚木の)銘文が分からないと、絵図方に申し入れたところ、台帳の数字を調べて書いた紙を渡され、これで早々に(塚木を)作製するようにと申し渡された。そこには、肥中浦より十四里、山口道場門前より一里二十三町と記されていた。
(解説)
萩藩の絵図方役人・平田仁左右衛門と、郡方地理図師・有馬八兵衛(有馬喜惣太の養嗣子)が、現地視察のために出張して、吉敷村畑に宿泊した際に、不明となっていた関屋一里塚の塚木の復旧を指示されたもの。萩藩の一里塚は、石盛りで塚を作り、上に里程を記した塚木が立てられていた。塚木の材料は御立山(藩有林)から提供され、管理は各村に任されていた。
絵図方の村絵図作製事業は、享保十二年(一七二七)から寛延三年(一七五〇)頃まで、二十数年の長い年月をかけて、一応の完成を見たが、その後も幕末に至るまで、絵図の追加や修正が行われた。
この記事が書かれた安永二年時点で、すでに吉敷村の絵図(清図)は完成していたと思われる。この平田らの出張が、村絵図に関するものか、はたまた他の絵図に関するものかは定かでないが、彼らの具体的な仕事ぶりがよく分かる貴重な記録である。
絵図方は、防長の里程に関する台帳(道帳)を所持しており、関屋一里塚の場合も、台帳のデータを示したものであろう。当時の関屋一里塚の状況がわかるとともに、肥中街道が、藩の公務で使われた事例として、たいへん興味深い内容である。
以上のように江戸時代、長州藩には道路台帳が作られていて、肥中街道についても道路延長や一里塚の位置などの記録があったことが分かります。藩政にとっての街道の重要性もうかがえるものでした。絵図方役人の平田、有馬両氏と庄屋の野村さんの会話が生き生きと伝わってくるような気がします。
以上で肥中街道関屋の一里塚の話を終わります。この度設置した肥中街道の道標をたよりに、どうぞ皆さんで街道を歩いてみて下さい。