吉敷地域の文化

大内氏

2016/4/30

大内氏

 

南北朝時代の1300年代半ば24代大内弘世は長門国を平定し周防と長門を統一して山口に本拠地を定めました。下関市の国宝「住吉神社本殿」は弘世による長門国平定の記念碑的建物です。ついで赤間関(関門海峡)を制圧し瀬戸内海の海上権を握りました。こうして瀬戸内海で活動していた海辺の人たちを動かし海外(朝鮮半島、中国大陸など)との交易をひろげ、地域の経済活動は活発化しました。弘世は足利将軍に謁見のため上洛します。その際、都の人々に貴賤を問わず金品をばらまき人気を博したと「太平記」に記されています。

弘世の子25代義弘の時代朝鮮国との貿易が正式に始まり、益々輸出入の量は拡大して大きな利益を上げ大内氏の財政基盤は飛躍的に充実することになりました。それに伴い政治力、軍事力は強大になっていきました。

大内氏の支配した領国

当 主 支配した領国 没 年
25代  義 弘 周防 長門 豊前 筑前 石見 和泉 紀伊 応永6(1399)
26代  盛 見 周防 長門 豊前 筑前 永享3(1431)
27代  持 世 同上 嘉吉元(1441)
28代  教 弘 同上 寛正6(1465)
29代  政 弘 同上 明応4(1495)
30代  義 興 周防 長門 豊前 筑前 安芸 石見 享禄元(1528)
31代  義 隆 周防 長門 豊前 筑前 安芸 石見 備後 天文20(1551)

義弘が堺で足利義満との戦に敗死したのち弟の盛見が家を継いで、周防 長門 豊前 筑前の守護職に就きます。盛見もまた朝鮮国との貿易をはじめ交易を盛んにし、海外の新しい文化や品物を輸入することにつとめました。盛見は兄義弘の菩提を弔うために義弘が建立した香積寺の地で五重塔建設に着手しました。現在の瑠璃光寺五重塔です。

教弘の時代から明国との貿易(勘合貿易)に参加し大内氏はさらに豊かな経済力を持ちました。その子の政弘の時「応仁の乱」が起こり全国の主な大名が東西に分かれて戦い、政弘は山口から大軍を率いて上洛し西軍の総大将山名氏に加わりその勇名を知られました。教弘、政弘の時代には京の公家や有名な文化人たちが平和な山口の町に集まるようになります。大内氏の強大な軍事力と豊かな経済力、財政力に支えられ山口は全国に並ぶものないほどに繁栄しました。

義興の代は戦争に明け暮れ豊前 筑前 安芸 石見で戦い領国を維持拡大しました。明応8年(1499)足利義稙が幕府の管領細川政元に将軍の座を追われ、大内氏を頼って山口に亡命してきます。義興はこれを援護し、時節を見極め足利義稙を擁して軍を率いて京都に攻め上り、細川軍を破り永正5年(1508)義稙が将軍に復職しました。管領代の職に就いた義興はここにおいて足利幕府政治の実権を握り永正15年(1518)まで京都に滞在しました。この間、義稙から日明貿易の実権を得て勘合符を独占します。日明貿易を独占しいよいよ大内氏の経済力は発展しました。義興は戦国武将として戦争に明け暮れる中神を敬う念が強く、伊勢神宮を勧請し「高嶺大神宮」を建立し天皇から宸筆を賜りました。これがいまの山口大神宮です。また、吉敷中尾の台地に砦のような壮大な凌雲寺を建立しています。

しかし、義興の時代の後年から軍事力増強だけでなく公家との接近から公家化の面がのぞき始めます。長男義隆の嫁に京都の公卿万里小路氏から迎えたことに表れています。

 

義隆は周防 長門 豊前 筑前 安芸 石見 備後の七か国の守護職を兼ね日明貿易を独占莫大な利益を収めます。しかし義隆の学問と芸能など文化面への専心と軍事面からの逃避により、家臣団は文治派と武断派に分かれ亀裂が深まり大内氏は破綻へと向かうことになりました。

 

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